Walk through Saga-cho
町の店と、
歴史の跡へ。
食べる場所、働く場所、祈る場所。いまの佐賀町から歴史をたどります。
Living town guide
観光地ではなく、
暮らしの町を歩く。
佐賀町の魅力は、史跡だけではありません。長く続く店、新しく町に加わった店、 仕事を支える事業所が同じ通りに並び、歴史の跡と現在の暮らしが重なっています。
店を目的地の一覧にせず、町を歩く途中で出会う風景として紹介します。 営業日時や提供内容は変わるため、来訪前に各店の最新案内をご確認ください。
Town & shops
店先に、
町の今が見える。
米店、洋食、そば、インド料理、中華料理、魚を掲げる店、自動車整備。 それぞれの店先が、佐賀町で続く暮らしと仕事の幅を伝えます。
Indian restaurant
サンライズ
鮮やかな青い看板が目印のインド料理店。現在の町の食に新しい彩りを加えます。
店舗写真(パパスを除く):撮影 タカさん/S-TEKT(2026年7月)。パパス:提供写真。 営業日時や提供内容は変わるため、来訪前に各店の最新案内をご確認ください。
A building remembered
建物は消えても、
物語は町に残る。
佐賀一丁目にあったコスガの社屋。印象的な外観は町の風景として親しまれ、 数々のテレビドラマで物語の舞台にもなりました。
かつて
Kosuga building
町の社屋が、ドラマの舞台になった。
コスガ旧社屋は、石造風の外壁と左右対称の正面が印象的な建物でした。 佐賀町の日常に溶け込んだ建物でありながら、その存在感からテレビドラマのロケ地としても活用されました。
町の建物が映像の中に残ることも、佐賀町の記憶を伝える一つの方法です。 以前の姿と現在地を並べることで、失われた建物の大きさや町並みの変化を感じられます。
現在
A lost landmark
入口のテラコッタが、
町の見納めになった。
佐賀町にあった村林ビル。関根要太郎氏設計、1928(昭和3)年竣工。 ずんぐりとしたロマネスク風の外観と入口のテラコッタが印象的で、 テレビドラマのロケ地としても親しまれました。
Murabayashi building
レトロな角地が、ドラマの舞台になった。
村林ビルは、角の曲線壁とテラコッタが目を引く近代建築でした。 のちに佐賀町スタジオとしても使われ、レトロな外観からテレビドラマのロケ地として紹介されています。
2017年には解体の噂が流れ、翌年には解体が始まりました。 東京大空襲を逃れた建物の姿を、見納めに訪れた人が写真に残しています。 いま跡地には「佐賀町分署跡」の説明板が置かれ、往時の姿を伝えています。
現在
Ako Gishi · Chikuma Miso
赤穂浪士を迎え入れた、
ちくま味噌の記憶。
元禄元年(1688)創業の老舗味噌。永代橋際の乳熊屋が、 討ち入りを果たした義士たちを甘酒粥でもてなしたと石碑に残ります。
Chikuma Miso
粥でねぎらった、永代橋際の味噌蔵。
ちくま味噌は、伊勢国乳熊郷(現・三重県松阪市付近)を故郷とする竹口作兵衛が、 元禄初年(1688)に深川・永代橋際で味噌醸造を始めたことに由来します。 「ちくま」は信州の千曲ではなく、郷名の乳熊(ちくま)から来ています。
石碑によると、赤穂四十七士の一人・大高源吾は俳人としても知られ、 ちくま味噌初代・竹口作兵衛(俳号・木導)と宝井其角門下の友でした。 元禄十五年十二月十四日、討ち入りを果たした義士たちが永代橋を渡り、 乳熊屋味噌店の上棟の日に立ち寄ると、作兵衛は一同を招き入れて甘酒粥を振る舞い、 労をねぎらったと記されています。大高は去り際に名残の書を残し、泉岳寺へ向かいました。
昭和三十八年(1963)九月、ちくま味噌により「赤穂義士休息の地」石碑が建立されました。 いま店の姿は変わっても、石碑が町の記憶を伝えています。
Historic traces
足元に残る、
四つの町の記憶。
神社、米穀取引、肥料の市場、消えた橋。 現地の建物や説明板と照らし合わせると、佐賀町の歴史が今の道につながります。
Saga 2-chome
佐賀稲荷神社
佐賀二丁目の町の守り。力石や天水桶が伝わり、 商いと荷役の町で暮らした人びとの信仰を今に伝えます。
Rice market history
深川正米市場跡
明治19年(1886年)、この一帯に公開の正米市場が開かれました。 米穀取引の記憶は、食糧ビルディング跡地の説明板とモニュメントに残ります。
Registered historic site
干鰯場(元場)跡
江戸時代、干鰯などの肥料を扱う市場が置かれた記憶を伝える江東区登録史跡です。 米だけでなく、農業を支える肥料も水運で集まった町の広がりが見えます。
Lost bridge
上之橋跡
かつて町を分ける水路に架かっていた橋。橋そのものは撤去されましたが、 親柱が残り、現在の道の下にあった水路の位置を伝えています。