史実 関東大震災と深川
1923年(大正12年)の関東大震災では、深川区は区域の85%、世帯の92.7%が焼失したとされます。亀戸・大島・砂町も延焼被害を受けました。
参照:このまちアーカイブス
ヒーロー:空襲後の東京(航空写真・Wikimedia Commons)· クレジットは各図と CREDITS を参照
Before the raid
空襲の前に、焼け落ちる直前の町がありました。関東大震災で大きな被害を受けた深川は、昭和初期に復興を果たしていました。城東側は亀戸・大島・砂町など、下町の暮らしと工場が並ぶ地域でした。
事実区分: 史実 引用 解釈 概算 調査中
1923年(大正12年)の関東大震災では、深川区は区域の85%、世帯の92.7%が焼失したとされます。亀戸・大島・砂町も延焼被害を受けました。
参照:このまちアーカイブス
戦時下の当地は旧深川区(西部)と旧城東区(東部)に分かれます。両区は1947年に合併し、江東区が誕生します。
P03 · 震災後の深川区役所
P03b · 深川・木場(史料写真)
P03c · 深川(史料写真)
P01 · 旧深川区(江東リンク既存イラスト)
/hub/koto-history/ · 権利は同特集方針に準拠
P02 · 旧城東区(江東リンク既存イラスト)
/hub/koto-history/
P15 · 江東区(既存イラスト)
10 March 1945
3月9日深夜から10日未明にかけ、米軍B-29による大規模な焼夷弾攻撃が東京下町を襲いました。火災は目標地域をこえて広がり、本所区・深川区・城東区の全域などが焼け落ちたとされます。
火災は……本所区、深川区、城東区の全域……下町の大部分を焼き尽くしました。罹災家屋は約27万戸、罹災者は約100万人でした。
3月10日の下町大空襲は、夜間に低高度から大量の焼夷弾を投下した空襲でした。センター解説では投下量を1665トンと記します。
当時は深川区と城東区に分かれます。本ページは区全体の枠組みを示し、町内の詳細は各町会ページへ委ねます。
総務省の整理では、東京への空襲は終戦までに122回。3月10日はその中でも特に被害の大きい一夜です。
参照:総務省
二次資料の「第一目標=深川区」等は、作戦任務報告書との突合は継続調査とし、現時点では断定しません。
P05 · 焦土の東京(新大橋付近)
P04 · 1945年3月・空襲後
P05e · B-29
Numbers with sources
「江東区で○万人」と一つの数字にまとめず、旧区単位の公的系表をそのまま示します。
期間:昭和19年12月10日〜昭和20年8月14日。『東京都戦災誌』所収資料を基に中央区が公開する表より抜粋。
| 旧区 | 死亡 | 負傷 | 罹災者 | 全焼 | 罹災面積比 |
|---|---|---|---|---|---|
| 深川 史実 | 30,065 | 50,106 | 153,077 | 41,634戸 | 約77.9% |
| 城東 史実 | 13,757 | 2,220 | 126,590 | 42,433戸 | 約73.7% |
死亡・負傷の定義、集計期間が資料ごとに異なります。本ページは「この表ではこう出ている」と示し、他出典と足し合わせません。
碑文の「七百余名」「八百余名」はその碑の文面として扱います。区統計から町内へ按分しません。
Shadow and limits
表の数字は、夜の火災のなかで失われた命や家を、後から数え直した結果です。だから正確に見えるほど、同時に「数え方の限界」も見えやすくなります。ここを丁寧に読むと、ページ全体が一段面白く——そして重く——なります。
数字は、影の輪郭をなぞる線であって、影そのものではない。
統計に載った死者・罹災者の背後には、名前が残らなかった人、町を離れた人、家族の記憶のなかだけに残る人がいます。碑文の「七百余名」「八百余名」は、そういう影を町の言葉で留めようとした痕跡です。
中央区公開表は、昭和19年12月10日〜20年8月14日の集計で、注記どおり調査資料のない期間を含みません。警視庁史系の概数(3月10日一夜)と、旧区の累計表は、期間も単位も違うため足し合わせられません。
いまの江東区は1947年合併後の名前です。空襲当時は深川区と城東区。合併後の区名で過去を一括すると、町ごとの濃淡が消えます。本ページが旧区表を並べるのは、その濃淡を消さないためです。
焼け跡は舗装され、川沿いには新しい街が立ちます。それでも慰霊碑・地蔵・戦災樹木・資料センターは、数字では置き換えられない「現地の影」です。次の写真と場所の章は、その影を歩くための入口です。
Photo archive
空襲直後の航空写真、被害評価図、いまの江東の風景を並べます。惨状を煽るための掲載ではありません。いずれもクレジットは各図と CREDITS.md を参照してください。
P05d · 戦災東京(航空)
P05c · 被害評価航空写真(USSBS)
P05b · 焼夷弾攻撃のあと
P05g · 東京空襲(米軍撮影)
P05h · 空襲比較図
P05f · 戦略爆撃マップ
P06 · 1945・国会議事堂(東京戦災の文脈)
P16 · いまの清澄庭園
P16b · 隅田川@江東区
P16c · いまの深川
P16d · 木場公園
P17 · 亀戸天神
Places of memory
区内の戦災資料センターと、東京の主要な追悼施設、富岡八幡宮などを示します。観光周遊ではなく、追悼と学習のための地点です。
P07 · 戦災資料センター外観
戦禍の大きかった地に開かれた平和博物館。 tokyo-sensai.net ↗
P08 · センター館内
展示の撮影・商用条件はセンター方針に従って扱います。平和地蔵・子どもの平和像も同敷地内。
P14 · 富岡八幡宮
研究では区内の戦災樹木集中地の一つ。町会の富岡ページへ接続。
P14b · 富岡八幡宮(別カット)
戦前・戦後・いまの連続を、建物と樹木から読む入口。
P10 · 戦災犠牲者慰霊碑(白河)
碑文に白河二丁目で焼死者七百余名とあります(碑文の記述として扱う)。 総務省 施設情報 ↗
P11 · 八百霊地蔵尊(森下)
当時の深川高橋五丁目の犠牲者を慰めるため、戦後まもなく建立されたと由来記にあります。 総務省 施設情報 ↗
P12 · 普門院・供養碑(亀戸)
亀戸駅前の焦土に建てられ、のち普門院へ移された供養碑。 総務省 施設情報 ↗
P13 · 良信院・供養塔(三好)
三好三丁目町会による五十回忌供養の塔。 総務省 施設情報 ↗
P09 · 世界の子どもの平和像
P09b · 平和地蔵
P10b · 横網町の追悼(墨田・参考)
震災・空襲の慰霊の中心の一つ。区内の碑とは区別して「東京全体の追悼」として示します。
Rebuild
終戦後、深川区と城東区は戦災からの復興を進め、1947年に合併して江東区が誕生します。いま目にする街並みは、その延長線上にあります。
1945.3.10
史実 深川区・城東区を含む下町が甚大な被害を受ける。
1945.8.15
史実 各地の碑文にも、この日を境に復興へ向かう言葉が刻まれます。
1947
史実 深川区と城東区が合併。 区公式 ↗
2002.3.9
史実 北砂に民間の平和博物館が開く。
P15b · 区誕生期の区役所史料
/hub/koto-history/
P17b · いまの門前仲町
P16c · 復興の先の深川
Walk today
追悼と学習のための短い動線案です。地図化は伊能ただたか/現地確認で詰めます。
東深川橋南側の慰霊碑、三好の良信院。清澄庭園周辺のいまの風景と重ねて歩く。
猿江橋たもと。短時間で立ち寄れる記憶の地点。
寺院マナーと撮影可否を確認のうえ。
展示・証言に触れる本丸。開館日は公式サイトを確認。
Sources
重要事実は出典に戻せること。写真は1点ずつ台帳へ。
| 内容 | 扱い |
|---|---|
| 1945年3月10日前後に東京下町が大規模焼夷弾攻撃を受けた | 史実 |
| 深川区・城東区の全域が焼失域に含まれる(センター解説) | 史実 |
| 旧深川区死亡30,065・旧城東区死亡13,757(中央区公開表) | 史実(当該表) |
| 1947年に深川区と城東区が合併し江東区誕生 | 史実 |
| 戦災資料センターが北砂に2002年開館 | 史実 |
| 第一目標が深川区だった | 調査中 |
| 江東区の死者を一つの公式総数として断定 | 不正確 |
権利 — 写真は Wikimedia Commons・総務省追悼施設ページ等。クレジットは CREDITS.md。追加の許諾確認は継続します。
担当 — 構成:渋沢栄一/公開実装:cよしこ · 2026-08-03