空襲後の東京を上空から写した白黒写真

江東リンク

焦土のあとで。

いまの江東区——旧深川区と旧城東区——は、1945年3月10日の東京大空襲で甚大な被害を受けました。数字と史料、航空写真、いまも残る慰霊の場から、事実に基づいてたどります。

ヒーロー:空襲後の東京(航空写真・Wikimedia Commons)· クレジットは各図と CREDITS を参照

写真について 掲載写真は Wikimedia Commons 等の公開資料と、既存江東リンク素材です。クレジットは各図と CREDITS.md に記します。クレジットは各図と CREDITS.md を参照。遺体・焼死体写真は原則非掲載です。

Before the raid

戦前の深川・城東。

空襲の前に、焼け落ちる直前の町がありました。関東大震災で大きな被害を受けた深川は、昭和初期に復興を果たしていました。城東側は亀戸・大島・砂町など、下町の暮らしと工場が並ぶ地域でした。

事実区分: 史実 引用 解釈 概算 調査中

史実 関東大震災と深川

1923年(大正12年)の関東大震災では、深川区は区域の85%、世帯の92.7%が焼失したとされます。亀戸・大島・砂町も延焼被害を受けました。

参照:このまちアーカイブス

史実 二つの区がのちの江東区へ

戦時下の当地は旧深川区(西部)と旧城東区(東部)に分かれます。両区は1947年に合併し、江東区が誕生します。

参照:江東区「1947年 江東区誕生」

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復興を終えた町に、1945年3月の夜が来る。

10 March 1945

1945年3月10日。

3月9日深夜から10日未明にかけ、米軍B-29による大規模な焼夷弾攻撃が東京下町を襲いました。火災は目標地域をこえて広がり、本所区・深川区・城東区の全域などが焼け落ちたとされます。

火災は……本所区、深川区、城東区の全域……下町の大部分を焼き尽くしました。罹災家屋は約27万戸、罹災者は約100万人でした。

史実 夜間の焼き払い空襲

3月10日の下町大空襲は、夜間に低高度から大量の焼夷弾を投下した空襲でした。センター解説では投下量を1665トンと記します。

解釈 江東区を「一枚」で語らない

当時は深川区と城東区に分かれます。本ページは区全体の枠組みを示し、町内の詳細は各町会ページへ委ねます。

史実 東京全体の回数

総務省の整理では、東京への空襲は終戦までに122回。3月10日はその中でも特に被害の大きい一夜です。

参照:総務省

調査中 第一目標の表記

二次資料の「第一目標=深川区」等は、作戦任務報告書との突合は継続調査とし、現時点では断定しません。

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被害の規模は、出典を添えて読む。

Numbers with sources

被害の規模——出典付きで。

「江東区で○万人」と一つの数字にまとめず、旧区単位の公的系表をそのまま示します。

東京35区の被害状況(旧深川・旧城東)

期間:昭和19年12月10日〜昭和20年8月14日。『東京都戦災誌』所収資料を基に中央区が公開する表より抜粋。

旧区 死亡 負傷 罹災者 全焼 罹災面積比
深川 史実 30,065 50,106 153,077 41,634戸 約77.9%
城東 史実 13,757 2,220 126,590 42,433戸 約73.7%
出典: 中央区「空襲における東京35区の被害状況」

解釈 数字の読み方

死亡・負傷の定義、集計期間が資料ごとに異なります。本ページは「この表ではこう出ている」と示し、他出典と足し合わせません。

調査中 町内の人数

碑文の「七百余名」「八百余名」はその碑の文面として扱います。区統計から町内へ按分しません。

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数字の向こうに、数えきれない影がある。

Shadow and limits

影と限界。

表の数字は、夜の火災のなかで失われた命や家を、後から数え直した結果です。だから正確に見えるほど、同時に「数え方の限界」も見えやすくなります。ここを丁寧に読むと、ページ全体が一段面白く——そして重く——なります。

数字は、影の輪郭をなぞる線であって、影そのものではない。

このページの読み方——出典付きの表を信じつつ、表の外に残るものを残す

解釈 「影」とは何か

統計に載った死者・罹災者の背後には、名前が残らなかった人、町を離れた人、家族の記憶のなかだけに残る人がいます。碑文の「七百余名」「八百余名」は、そういう影を町の言葉で留めようとした痕跡です。

史実 「限界」の具体例

中央区公開表は、昭和19年12月10日〜20年8月14日の集計で、注記どおり調査資料のない期間を含みません。警視庁史系の概数(3月10日一夜)と、旧区の累計表は、期間も単位も違うため足し合わせられません。

解釈 なぜ一枚の「江東区総数」にしないか

いまの江東区は1947年合併後の名前です。空襲当時は深川区と城東区。合併後の区名で過去を一括すると、町ごとの濃淡が消えます。本ページが旧区表を並べるのは、その濃淡を消さないためです。

史実 いまの景色に残る影

焼け跡は舗装され、川沿いには新しい街が立ちます。それでも慰霊碑・地蔵・戦災樹木・資料センターは、数字では置き換えられない「現地の影」です。次の写真と場所の章は、その影を歩くための入口です。

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影の輪郭を、写真と場所で確かめる。

Places of memory

いま残る記憶の場所。

区内の戦災資料センターと、東京の主要な追悼施設、富岡八幡宮などを示します。観光周遊ではなく、追悼と学習のための地点です。

許諾待ち 東京大空襲・戦災資料センターの外観 P07 · 戦災資料センター外観

東京大空襲・戦災資料センター

江東区北砂1-5-4 · 2002年開館

戦禍の大きかった地に開かれた平和博物館。 tokyo-sensai.net ↗

許諾待ち 戦災資料センターの館内展示 P08 · センター館内

館内展示

北砂 · Commons掲載写真

展示の撮影・商用条件はセンター方針に従って扱います。平和地蔵・子どもの平和像も同敷地内。

許諾待ち 富岡八幡宮の境内 P14 · 富岡八幡宮

富岡八幡宮と戦災樹木

富岡 · 神社権利は各出典を正とする

研究では区内の戦災樹木集中地の一つ。町会の富岡ページへ接続。

許諾待ち 富岡八幡宮の門前 P14b · 富岡八幡宮(別カット)

門前のいま

深川八幡としても知られる

戦前・戦後・いまの連続を、建物と樹木から読む入口。

許諾待ち 白河の戦災犠牲者慰霊碑 P10 · 戦災犠牲者慰霊碑(白河)

戦災犠牲者慰霊碑

白河2 · 東深川橋南側 · 昭和46年建立

碑文に白河二丁目で焼死者七百余名とあります(碑文の記述として扱う)。 総務省 施設情報 ↗

許諾待ち 八百霊地蔵尊 P11 · 八百霊地蔵尊(森下)

八百霊地蔵尊

森下5 · 猿江橋たもと

当時の深川高橋五丁目の犠牲者を慰めるため、戦後まもなく建立されたと由来記にあります。 総務省 施設情報 ↗

許諾待ち 普門院の戦災殉難者供養之碑 P12 · 普門院・供養碑(亀戸)

戦災殉難者供養之碑

亀戸・普門院 · 昭和21年建立

亀戸駅前の焦土に建てられ、のち普門院へ移された供養碑。 総務省 施設情報 ↗

許諾待ち 良信院の戦災殉難者諸精霊供養塔 P13 · 良信院・供養塔(三好)

戦災殉難者諸精霊供養塔

三好・良信院 · 平成6年建立

三好三丁目町会による五十回忌供養の塔。 総務省 施設情報 ↗

許諾待ち 世界の子どもの平和像 P09 · 世界の子どもの平和像

世界の子どもの平和像

戦災資料センター構内

総務省 施設情報 ↗

許諾待ち 東京空襲平和祈念の碑(横網町・参考) P10b · 横網町の追悼(墨田・参考)

東京の追悼拠点(参考)

墨田区・横網町公園 · 江東区外

震災・空襲の慰霊の中心の一つ。区内の碑とは区別して「東京全体の追悼」として示します。

Rebuild

焦土からの復興。

終戦後、深川区と城東区は戦災からの復興を進め、1947年に合併して江東区が誕生します。いま目にする街並みは、その延長線上にあります。

  • 1945.3.10

    東京大空襲(下町)

    史実 深川区・城東区を含む下町が甚大な被害を受ける。

  • 1945.8.15

    終戦

    史実 各地の碑文にも、この日を境に復興へ向かう言葉が刻まれます。

  • 1947

    江東区誕生

    史実 深川区と城東区が合併。 区公式 ↗

  • 2002.3.9

    戦災資料センター開館

    史実 北砂に民間の平和博物館が開く。

Walk today

いま歩けるコース(骨子)。

追悼と学習のための短い動線案です。地図化は伊能ただたか/現地確認で詰めます。

清澄白河 — 慰霊碑と良信院

東深川橋南側の慰霊碑、三好の良信院。清澄庭園周辺のいまの風景と重ねて歩く。

森下 — 八百霊地蔵尊

猿江橋たもと。短時間で立ち寄れる記憶の地点。

亀戸 — 普門院の供養碑

寺院マナーと撮影可否を確認のうえ。

北砂 — 戦災資料センター

展示・証言に触れる本丸。開館日は公式サイトを確認。

町会ページへ

門前仲町・富岡・佐賀・永代・福住などの story / walk に空襲・戦災の記述があります。

Sources

出典・事実区分・権利。

重要事実は出典に戻せること。写真は1点ずつ台帳へ。

史実としての確度(骨子)

内容扱い
1945年3月10日前後に東京下町が大規模焼夷弾攻撃を受けた史実
深川区・城東区の全域が焼失域に含まれる(センター解説)史実
旧深川区死亡30,065・旧城東区死亡13,757(中央区公開表)史実(当該表)
1947年に深川区と城東区が合併し江東区誕生史実
戦災資料センターが北砂に2002年開館史実
第一目標が深川区だった調査中
江東区の死者を一つの公式総数として断定不正確

権利 — 写真は Wikimedia Commons・総務省追悼施設ページ等。クレジットは CREDITS.md。追加の許諾確認は継続します。

担当 — 構成:渋沢栄一/公開実装:cよしこ · 2026-08-03